昭和40年3月30日 夜の御理解


 ご造営の話し合いがどんどん進んでおるわけなんですけれども、んー、今日勝彦が毎日、えー、毎日ここへ日参してきております。ちょっと(?)みて、参って来るのでしょう、その都度都度、毎日ここでお届けをして帰るわけなんですけれども、今日のお届けの中に、こんなお届けをしておる。
 「今日も広大なお恵みの中に、祈りの中にお生かしのおかげを蒙りありがとうございました。
この度の教会建設は、決して大坪家の住宅で建てられるのではないと思います。しいて、私共の場所と申せば、畳半畳のご結界であろうと思います。この度建てられようとしておりますのは、氏子の信心の稽古場、願い場所お礼場所でありますと。このような事は、分かりすぎるくらいに分かっているはずとおと。私ですが、ともすれば大坪家の住宅が建つが如く、錯覚するような事があります。まったく相済まん事でありますと。どうぞ、このような御無礼、不浄が家族の者にありませぬよう、お願い申し上げますと。教会建設のご成就を申し上げます。」
 というようなことが書いてありますのですけれども、確かにそれだけではないですけれどもね、ここんところば、例えば家族の者がこうして欲しいとかああして欲しいとか、ここがこうならまだいいけれどもと、例えば、んー、せっかく神様がして下さろうとしておるのに、そのそういう意味での不浄をかけたり、欲の上に欲を言うような事があってはならないと言うわけなんですけれどもね。ね。
 ★もしそういうような気持ちが起こってまいりますとですね、それは丁度、今私その事を御祈念させてもらいよりましたらね、「新婚旅行に行ってからかんしゃくを回しておるようなもの」だと仰るです。
 お互いが良ければ良いでです、まだ、良い、もっと良いという気を起こすという事がいけないということです。ね。良ければ良い、それでまた、よかろうように思うと言う事。それは、例えば人間の新婚旅行と言えや、いわば、幸せの絶頂というような時でしょう。それでその、まあいわば宿屋なら宿屋についてから、その、主人がかんしゃくをまわしておるような、事があってはならんと言ったことを頂くのですけれども、得てしてです、お互いがおかげを受けていかなきゃなりません。
 どういうおかげを受けてもです、それが、いわば、それなりのものであり、いうならば、私共の信心がです、自分の信心が出来ておれば二十も三十もいわばおかげを下さっておるのだということを忘れてはならないと。
 ね、本当にもう考えてみるとあの時分の事からこの時分の事と思うと、もう本当に不平の不足のだんじゃない、と思いながら分かりながら不平不足が出ておるというのは、これは、あたかも新婚旅行に行ってかんしゃくを回しておるようなものだという事を一つ心しておかなけばなりませんね。
                           おかげを頂かねばなりません。